ねじまき鳥クロニクルについて

成田からジェットスターでどっか行くときに第三ターミナルの書店で買い物をするのだけど、沖縄に行くときもだし、四国の時も村上春樹の本を買って、その時に買ったねじまき鳥クロニクルをちょっと前に読み終わった。断片的に読んだことがあって、たぶん東北大の川内の図書館で村上春樹全集みたいので読んだのだったのかもしれない。村上春樹を読むのは頭をまるで使わないのでどんどん読める。

 

中学校の頃、何年生の時か忘れたけどクラスの学級文庫的なのでねじまき鳥クロニクルを置いてあった。それを思い出すとそれを読んでたやつが水色のジャージ姿で思い出されて何かよい。学校のジャージのデザインなんてそんな大差がないので水色のいい感じの色で良かったし、高校のジャージは少し野暮ったかった。

 

 

 

 

 

何だろう。ねじまき鳥クロニクルは何がいいかって言われると何がいいとは言えないのだけど、この本の象徴とも言うべき部分は笠原メイの手紙の以下のようなニュアンスの部分だと思う。

「私は電子レンジに茶碗蒸しのもとを入れたカップを入れてチンしてグラタンが出来上がっとして、そういうこともあるよなと思う。あるいは茶碗蒸しが出来上がったとしても誰かがそれを途中でグラタンに置き換えてそれをまた、茶碗蒸しに置き換えたりなんてことだってあり得ると思う。」

 

 

 

 

 

 

 

これは何というか、もうけっこうギリギリだなって思う。僕が子供の頃は怪談とか超常現象とかを扱うテレビ番組が多くあって、科学では説明できないことってあるよね、っていうのが割と多くの人の共通認識だったような気がする。この小説が少し古さを感じさせてしまうのは(それでも村上春樹はちゃんと何も考えさせないでくれるというか、淡々と物語を語り続けてくれる)今ではスマートフォンが普及したことが関係あるのかわからないけど、科学で説明できないことってあるよね、っていう空気がだいぶ弱まってしまって、苔むした薄暗い森のもわっとした空気みたいな空気感をホラーゲームなどで擬似的には感じるけど自分事としてホントそういう超常現象的なのってあるよね、という感覚はなくなってきてるというのがあるな、と思う。

 

説明が下手だけど読んだ人には何となく伝わる気もする。こういうことって起こるよね、っていうのは村上春樹の優しさのように思う。